聖書の殆どの書物は「神は、こう言われる」と、私たちに語りかけます。預言者は自分の考えではなく、神が言われることを語り、神の言葉として書き記しました。神は言われる、と。記号にすると↓上(神)から下(人間)です。それに対して詩編は、私たちの代弁として神に語りかけています。記号にすれば↑下から上にとなります。そこが大きく違っています。詩編の殆どが、神への語りかけ(時に叫び、嘆く)です。それは、祈りと言い換えられます。詩編の祈りです。もちろん150編の中には、人が人へと語り教える詩もあります。祈りを学ぶのに、最適なのが詩編です。しかし、祈りとはどういうものかの説明や記述はありません。祈りそのものが書き記されているのです。それを通じて、信仰とは、神とは、救いとは…を学ぶのです。

 サムエルは答えた。「どうぞお話しください。
 僕は聞いております」(サムエル上3章10節)

 信仰は聞くことに始まりますから(ローマ10章17節)、静まって耳を澄ます必要があります。そこで上記の聖句が引き合いに出されます。少年サムエルのように、と。そうしていますか?神が語られるのを、まず聴くことです。私たちは僕(しもべ)ですから。しかし、祈りにおいては、これだけではなく、私たちの方が先でも良いのかも知れません。神の子どもとしてなら、その方が自然でしょう。幼稚園から帰って来た子どもが、お母さんの前にちんまりと座って、「母よ、お話しください。子どもは聞いております」と言うでしょうか。むしろ、今日、幼稚園であったことを、舌足らずの口調で一生懸命に母親に話そうとします。母親は注意深くそれに耳を傾け、子どもが話し尽くしたら、「そうなの、よかったわねえ」また「そんなことがあったの、でもねえ」と、話すのではないでしょうか。そうすれば、聴いてもらって、ふと静かになった子どもの心にスーッと母親の言葉が流れ込んでいくでしょう。私たちと神との関係も、それと同じではないでしょうか。その上で、サムエルのように、「主よ、私に必要なお言葉を語ってください。僕は聞いております」と言うのです。そうすれば、聞きたいと思っていた神からの御言葉が、魂に響くように聞こえてきます。そこに祈りの醍醐味があります。
 詩編の祈りは、私たちを祈りへと導き、神へと至らせてくれます。詩編を、そのように読みたいのです。

 

 

 彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり 妻はやもめとなるがよい。
 子らは放浪して物乞いをするがよい。………
            (詩109編8~20節)

 聖書をノートに書き写し始めたのは、聖書を毛筆で10年かけて、全部筆写されたS姉に影響されてでした。
最初に取り組んだのが新約聖書で、1年かかりました。続いて筆写したのが詩編でした。これも約1年かかりました。その中で、気付いたことがあります。150ある詩編の中には、書き写すのが苦痛になる詩があったことです。その代表が冒頭の詩編です。呪いの詩編に分類されるのですが、敵を呪う言葉で満ちています。そのため、この詩を筆写するのを後回しにしてしまいました。書き写したくなかったからです。そのため、筆写が最後になってしまいましたが、どうしてこのような詩編があるのでしょうか。それをご一緒に考えます。

 冒頭の聖句の前(1~7節)に書かれているのは、作者ダビデに吐きかけた憎しみであり、理由もなく戦いを挑んで来て、たとえ愛しても敵意を示し、こちらの善意に悪意で返して来る人の姿です。そんな敵への呪いの言葉が、冒頭の聖句なのです。呪いを祈っているのです。あんな奴、不幸になって早く死んでしまえば良いのに…と祈っているのと同じです。それは詩58編も同じで、呪いの言葉が列記されています。

 私たちは、主イエスが言われた「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」を知っていますから、どうしても、呪いの詩編には違和感を覚えます。でもそうした詩編が、聖書から排除されていないのは意味があるはずです。人間としての正直な感情が呪いの思いなら、それを理想に反するからと隠したり、圧し潰したりしてはならないのです。しかし、相手に直接ではなく、すべてをご存知の神に対して語るのです。包み隠さず正直に、真情を吐露することです。神に全部吐き出せば、心が浄化されます。虐待され、ひどい言葉を吐きかけられ続けて鬱病になって苦しむ人に、赦しを説く前にすべきことがあると分かりました。それが、呪いの詩編を共に祈ることだと。主の御名によって、相手への呪いを言葉にして、全部吐き出して良いのですから。それが,呪いの詩編が残されている理由です。
キレイ事で収めても、私たちの本心は癒されません。ただし、自分の罪を告白しつつすることが必須です。

 

  わたしの神よ、わたしの神よ
  なぜわたしをお見捨てになるのか。
  なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず……
              (詩22編2節)

 これは、十字架上で主イエスが叫ばれた聖句です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ27章46節)。神から見捨てられた者の、悲痛な叫びに聞こえます。その実、主は見捨てられたのです。弟子たちから裏切られ見捨てられただけでなく、父神からも完全に見捨てられました。そんな状況の中で、主はどんな思いで詩22編の冒頭聖句を口にされたのでしょうか。十字架の耐え難い苦しみの中で、何を思いながら、この聖句を口にされたのでしょうか。ある方は、「この詩編は、23節から讃美の歌に変わっています。そのことを念頭に置いて、冒頭の聖句を口にされた」と言います。本当はどうだったのか、主のみ知るわけですが、22編は悲劇的で悲痛な叫びで始まっても、後半は神賛美に推移しています。主イエスは詩編にも精通しておられましたから、この詩全体を知った上で、冒頭の叫びを口にされたことは確かです。いずれにしても、見捨てられた者の叫びです。

 十字架の出来事が1000年も前に、ダビデの口を通して語られています。ダビデにも見捨てられ、絶望しかない立場に置かれた時期がありました。そのような時にも「わたしの神よ」と、呼びかけています。捨てられても、私の神であることに変わりはないからです。だから、大声で叫ばれたのです。ダビデは、「わたしの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」(5,6節)と、祈っています。「裏切ることのない誠実で真実な父神が子である私を見捨てたのは、誰かを救うために他ならない。罪ある全ての人の身代わりとなって、私は見捨てられた。私を裏切り、見捨てた者たちが、その罪の故に救いから捨てられないためだ。私が見捨てられたのは、私を信じる者が決して見捨てられないため」

 以上のことから、主イエスが大声で叫ばれたのは、信じる者は1人も滅びない(見捨てられない)との宣言です。どんな状況に置かれても、絶望してはならないのは、もっと悲惨などん底に落とされた主が、あなたを支えておられるからです。詩編をそう読みました。

 

 主は私の羊飼い 私は乏しいことがない。
      (詩編23編節1節・聖書協会共同訳)

 祈り感謝礼拝の微妙な違い。祈りは祈願・嘆願(~して下さい)が中心で、その典型が詩70編です。「主よ、遅れないでください」早く!早く!と急かせるSOSの祈りです。苦しい時、辛い時、そう祈って良いのです。感謝は、求めたものが与えられた時に手渡す領収書の祈りです。典型が107編です。そして、礼拝とは、主ご自身がどのような御方なのかの言い表しです。嘆願でも感謝でもない。その典型が詩23編です。 激しい求めや願いはなく、感謝もありません。それらはいつも自分が中心です。自分の必要を訴え、求め、与えられたら感謝する祈りだからです。そうした詩編が多い中で、23編は「礼拝の言い表し」の模範です。これほど多くの人に愛されている詩編は、他にありません。愛される理由は何でしょうか。それは主が中心になっているばかりか、その主を指さしているからです。この神こそが、あなたの神でもあるのです、と。

 主は…と書き出されて、主がどのような御方なのかが言い表されています。羊にとって、飼われている羊飼いが良い御方なのか、そうではないのかで天と地ほどの違いが生れるからです。実際の羊飼いが書いた本に出て来る対照的な羊の描写を読むと、胸が痛くなります。ひどい羊飼いに飼われた羊ほど哀れで、惨めなものはないからです。主は私を緑の野に伏させ 憩いの汀に… 羊が伏すのは、安全が守られ平安で居られる時だけです。青草が一杯ある緑の野に伏させ、休ませるのが羊飼いの役目です。その上で、憩いの水のほとりに伴ってくださるのです。そうして魂を生き返らせてくださるのです。ダビデにとって、主はそういう御方でした。それは、私たちにとっても同じです。ダビデは魂が生き返るのを、何度も経験したと思われます。若き日、サウル王に命を狙われ、追い回されたダビデでした。その都度、神に守られました。それは、すべての日々に於いてなのです。最後の6節:命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。こちらが嘆願し求めるのではない。向こうから善き事と恩寵だけが、次々と追いかけて来るのです。もっともっとあげよう,と。感謝は尽きないが、それ以上に、惜しみなく与え尽くされる主を言い表しているのです。私たちは、十字架の主に対して同じ思いを抱きます。これはダビデが最晩年に書いた詩です。味わいつつ、暗誦しましょう。            

 

 しかし、主よ、私はあなたに信頼します。
 私は言いました、「あなたこそ わが神」と。
 私の時(複数)は御手にあります。(詩31編15,16節)

「主よ、憐れんでください、私は苦しんでいます」と嘆き訴える祈りを口にしながらも、上記の聖句のように、「しかし、主よ、私はあなたに信頼します」と、神への信頼を言い表しています。病気で死の床に伏し、敵のような隣人から嘲られようとも「あなたこそ私の神です」と告白しています。そして、私の時は、主よ、あなたの御手の中にありますと述べます。これまで遭遇して来た、あの時・この時の複数の出来事を思い浮かべています。それらすべては、偶然に起きたのではなく、神の御手のなせる業ですから。思いがけない出来事も、すべてが神の御手の中で起きているのであって、偶然はない。礼拝讃美歌327番(旧95番)に、「われの時は 御手にぞある 刺されし御手もて われを守る」と歌われています。十字架の上で釘を刺されし主イエスの御手、その御手を伸べて私のために祈る主イエス、私の手を引いて導かれる主の御手、憂きも喜びも主の御手から受け(すべては主から来る) 私はすべてを委ねます。この讃美歌はダビデの信仰を言い表していて、昔から先輩らの愛唱歌でした。

 十字架上で語られた最期の言葉が6節の「主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」(ルカ23章46節)でした。主イエスは息を引き取る前に、詩31編を口にしました。それに倣ってステファノは殉教の時、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と語りかけています。多くの聖徒たちも、臨終の時、同じように祈っています。生も死も、すべては主の御手にあるからです。このことを思う時、いつも喜び・絶えず祈り・どんなことにも感謝できます。神は主イエスに在って、すべてを最善に導いてくださるのですから。辛く悲しいことも神は御手の中で、万事を益に変えてくださいます。人生に無駄な出来事は、何一つ無いのです。すべては善き事、益に変えられます。そのことも含めて、呻き嘆かねばならない辛い状態の渦中でも、「しかし、主よ、私はあなたに信頼します」(冒頭の聖句)と祈りたいものです。この詩編は最後には「主をたたえよ、主は驚くべき慈しみの御業を・・・示してくださいました」(22節)と、賛美への勧めになっています。嘆きから信頼へ、そして、賛美へと祈りが変化しています。礼拝讃美歌256番♫嘆きは変わりて歌となりぬ…です。