生涯の日を正しく数えるように教えてください。
 知恵ある心を得ることができますように。
             (詩編90編12節)

 メメント・モリは、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句です。上記の聖句は、生涯の日(残された日々)を正しく数える知恵を求めた祈り、モーセの祈りです。永遠の神の前では、本当にはかないのが人間の命と営みです。千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません(4節)。『平家物語』は、祇園精舎の鐘の音 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理あらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き者も遂には滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ…と始まります。おごる高慢さを戒め、自分の死を正しく受け止める必要が聞き取れます。しかし、死を想い、語ることは、とかくタブー視されがちです。でも今を充実して生きるためには、自分の最期を覚えることが大切です。モーセは人間の罪に対する神の怒りを語っています。11節:御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知るでしょう。そして、冒頭の聖句が続きます。十字架の死は、私たちが受けるべき神の怒りを、主イエスが身代わって受けられたものです。主の御苦しみは、私たちの罪が、どんなに深く重いかを示しています(礼讃355番3節)。十字架の救いを恵みとして受け取り、残された生涯の日を正しく数える知恵を、祈り求めたいものです。

 スティーブ・ジョブズは17歳の時、次の文章を読みました。毎日が人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずその通りになる。それ以来、毎朝鏡を見て、「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」と自問したと言います。今だけに集中して生きることです。出遭う人や出来事、なすべきことなどに対して、これが最後かも知れないと思うなら、向かい方が変わります。一期一会の気持ちです。胃がんで余命宣告を受けた男性を描いた『生きる』(黒澤明監督)という映画を思い出します。彼が真剣に充実して生きたのは、最後の数か月でした。私たちは人からの評価やプライド、恥などで悩みますが、それらは死を前にすると消えてしまいます。本当に重要なことは、死を越えて生きる永遠の命だと気付くからです。メメント・モリ、一期一会の心で、主の十字架を仰ぐ毎日でありたい。

 

 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろし い力によって
 驚くべきものに造り上げられている。   (詩139編14節)

 祈りが神との対話であることを示す、この詩編は、主への呼びかけから書き始められています。そして、神を「あなた」と呼んでいます。あなたは全知全能、偏在(どこにでも在す)の神です。だから、闇も、光のない夜も共に光に包まれる故、悩み苦しみの闇も絶望も、主には無く、救いと解決の光がそこから出て来ます。そのような神に、「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内に組み立ててくださった」と語りかけます。それに続くのが、冒頭の聖句です。

 NHKテレビで「人体の不思議」が放映されましたが、内臓同士が互いに声を出し合っていることなど、驚くべき実態が示されました。偉大な神が全力を尽くして、最高傑作としての人間を創造されました。何となく出来上がったのではありません。ダビデは、そのことを知っていました。最高傑作とは、神の像(かたち)に似せて人間が創造されたからです。親子が似ているのは、親の像が子供にもあるからです。その人を見れば神が分かる、そのような者として最初の人間アダムは創造されました。しかし罪と堕落によって、神の像は損われてしまい、人間を見たら神よりも悪魔が分かるまでに堕落してしまいました。そこにアダムに代わる神の子としてイエス・キリストが遣わされたのです。主イエスを見たら神が分かるのは、そのためです。

 ダビデは「秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」(15,16節)と綴っています。私たちの体は万物の創造主によって造られました。たとえ今は、 病気の症状を示しているとしても、神の御手の作品なのです。そこに希望があります。だから、人の素晴らしい所に目を留められる人になりたいと願います。  マスコミから報道されるニュースの大半が、悲惨な事件と、それにまつわる醜悪な側面(罪の闇)ばかりであり、見聞きしていると切なくなります。人間ほど罪深い生き物はいないのは確かです。しかし、神の像を与えられたのも人間だけです。詩編の祈りは、環境破壊など惨憺たる様相の地であっても、「主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています」(詩119編64節)と語りかけます。ここに信仰の祈りが示されています。