彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり 妻はやもめとなるがよい。
 子らは放浪して物乞いをするがよい。………
            (詩109編8~20節)

 聖書をノートに書き写し始めたのは、聖書を毛筆で10年かけて、全部筆写されたS姉に影響されてでした。
最初に取り組んだのが新約聖書で、1年かかりました。続いて筆写したのが詩編でした。これも約1年かかりました。その中で、気付いたことがあります。150ある詩編の中には、書き写すのが苦痛になる詩があったことです。その代表が冒頭の詩編です。呪いの詩編に分類されるのですが、敵を呪う言葉で満ちています。そのため、この詩を筆写するのを後回しにしてしまいました。書き写したくなかったからです。そのため、筆写が最後になってしまいましたが、どうしてこのような詩編があるのでしょうか。それをご一緒に考えます。

 冒頭の聖句の前(1~7節)に書かれているのは、作者ダビデに吐きかけた憎しみであり、理由もなく戦いを挑んで来て、たとえ愛しても敵意を示し、こちらの善意に悪意で返して来る人の姿です。そんな敵への呪いの言葉が、冒頭の聖句なのです。呪いを祈っているのです。あんな奴、不幸になって早く死んでしまえば良いのに…と祈っているのと同じです。それは詩58編も同じで、呪いの言葉が列記されています。

 私たちは、主イエスが言われた「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」を知っていますから、どうしても、呪いの詩編には違和感を覚えます。でもそうした詩編が、聖書から排除されていないのは意味があるはずです。人間としての正直な感情が呪いの思いなら、それを理想に反するからと隠したり、圧し潰したりしてはならないのです。しかし、相手に直接ではなく、すべてをご存知の神に対して語るのです。包み隠さず正直に、真情を吐露することです。神に全部吐き出せば、心が浄化されます。虐待され、ひどい言葉を吐きかけられ続けて鬱病になって苦しむ人に、赦しを説く前にすべきことがあると分かりました。それが、呪いの詩編を共に祈ることだと。主の御名によって、相手への呪いを言葉にして、全部吐き出して良いのですから。それが,呪いの詩編が残されている理由です。
キレイ事で収めても、私たちの本心は癒されません。ただし、自分の罪を告白しつつすることが必須です。