主は私の羊飼い 私は乏しいことがない。
      (詩編23編節1節・聖書協会共同訳)

 祈り感謝礼拝の微妙な違い。祈りは祈願・嘆願(~して下さい)が中心で、その典型が詩70編です。「主よ、遅れないでください」早く!早く!と急かせるSOSの祈りです。苦しい時、辛い時、そう祈って良いのです。感謝は、求めたものが与えられた時に手渡す領収書の祈りです。典型が107編です。そして、礼拝とは、主ご自身がどのような御方なのかの言い表しです。嘆願でも感謝でもない。その典型が詩23編です。 激しい求めや願いはなく、感謝もありません。それらはいつも自分が中心です。自分の必要を訴え、求め、与えられたら感謝する祈りだからです。そうした詩編が多い中で、23編は「礼拝の言い表し」の模範です。これほど多くの人に愛されている詩編は、他にありません。愛される理由は何でしょうか。それは主が中心になっているばかりか、その主を指さしているからです。この神こそが、あなたの神でもあるのです、と。

 主は…と書き出されて、主がどのような御方なのかが言い表されています。羊にとって、飼われている羊飼いが良い御方なのか、そうではないのかで天と地ほどの違いが生れるからです。実際の羊飼いが書いた本に出て来る対照的な羊の描写を読むと、胸が痛くなります。ひどい羊飼いに飼われた羊ほど哀れで、惨めなものはないからです。主は私を緑の野に伏させ 憩いの汀に… 羊が伏すのは、安全が守られ平安で居られる時だけです。青草が一杯ある緑の野に伏させ、休ませるのが羊飼いの役目です。その上で、憩いの水のほとりに伴ってくださるのです。そうして魂を生き返らせてくださるのです。ダビデにとって、主はそういう御方でした。それは、私たちにとっても同じです。ダビデは魂が生き返るのを、何度も経験したと思われます。若き日、サウル王に命を狙われ、追い回されたダビデでした。その都度、神に守られました。それは、すべての日々に於いてなのです。最後の6節:命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。こちらが嘆願し求めるのではない。向こうから善き事と恩寵だけが、次々と追いかけて来るのです。もっともっとあげよう,と。感謝は尽きないが、それ以上に、惜しみなく与え尽くされる主を言い表しているのです。私たちは、十字架の主に対して同じ思いを抱きます。これはダビデが最晩年に書いた詩です。味わいつつ、暗誦しましょう。