しかし、主よ、私はあなたに信頼します。
 私は言いました、「あなたこそ わが神」と。
 私の時(複数)は御手にあります。(詩31編15,16節)

「主よ、憐れんでください、私は苦しんでいます」と嘆き訴える祈りを口にしながらも、上記の聖句のように、「しかし、主よ、私はあなたに信頼します」と、神への信頼を言い表しています。病気で死の床に伏し、敵のような隣人から嘲られようとも「あなたこそ私の神です」と告白しています。そして、私の時は、主よ、あなたの御手の中にありますと述べます。これまで遭遇して来た、あの時・この時の複数の出来事を思い浮かべています。それらすべては、偶然に起きたのではなく、神の御手のなせる業ですから。思いがけない出来事も、すべてが神の御手の中で起きているのであって、偶然はない。礼拝讃美歌327番(旧95番)に、「われの時は 御手にぞある 刺されし御手もて われを守る」と歌われています。十字架の上で釘を刺されし主イエスの御手、その御手を伸べて私のために祈る主イエス、私の手を引いて導かれる主の御手、憂きも喜びも主の御手から受け(すべては主から来る) 私はすべてを委ねます。この讃美歌はダビデの信仰を言い表していて、昔から先輩らの愛唱歌でした。

 十字架上で語られた最期の言葉が6節の「主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」(ルカ23章46節)でした。主イエスは息を引き取る前に、詩31編を口にしました。それに倣ってステファノは殉教の時、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と語りかけています。多くの聖徒たちも、臨終の時、同じように祈っています。生も死も、すべては主の御手にあるからです。このことを思う時、いつも喜び・絶えず祈り・どんなことにも感謝できます。神は主イエスに在って、すべてを最善に導いてくださるのですから。辛く悲しいことも神は御手の中で、万事を益に変えてくださいます。人生に無駄な出来事は、何一つ無いのです。すべては善き事、益に変えられます。そのことも含めて、呻き嘆かねばならない辛い状態の渦中でも、「しかし、主よ、私はあなたに信頼します」(冒頭の聖句)と祈りたいものです。この詩編は最後には「主をたたえよ、主は驚くべき慈しみの御業を・・・示してくださいました」(22節)と、賛美への勧めになっています。嘆きから信頼へ、そして、賛美へと祈りが変化しています。礼拝讃美歌256番♫嘆きは変わりて歌となりぬ…です。